素直になれない

「痛っ……」
 張られた頬がひりひりと痛い。熱を持ったそこを押さえながらとぼとぼと足を進める。
 宝石みたいな綺麗な瞳に、溢れそうな涙を湛えて、つくりものみたいに整った顔が歪んで――次の瞬間には、盛大な音。遅れてくる熱と痛み。
 女の子の扱いにはわりと慣れているつもりだったけれど、彼女は、今までの女の子のどれとも違った。
 深く、深く溜息をつく。
「わあ! 手形までしっかり残ってるね」
 真正面からの無邪気な声に、アーサーがゆっくりと顔をあげると。
(ああ、やっぱり)
 そこには、今ちょうど、会いたくない人物が、たくさんの杖を抱えてニコニコと笑っていた。


 裏庭には、未だ先の戦いの跡が残っていた。今腰かけている倒れた柱もその一つだ。根こそぎ下のほうから折れているそれは、魔法で持っていかれたのだろう。もしかしたら自分が壊したのかもしれないと、罪悪感が一瞬よぎったが、あまりに綺麗に折れすぎている。
 自分がやったら、きっともっとボロボロだ。
 ただ、ちょうど日陰になるところに、そして特に周りに何もないところに倒れてくれたおかげで、休憩にはちょうどいい。そして、そこでアーサーは治療という名の練習台になっていた。 
 彼がマスターナイトを目指していると聞いたのは耳に新しい。
 完全に暗唱したわけではないのだろう。リーフが手慣れない様子でパラパラと魔道書を捲りながら、ひとつひとつの祝詞を確認していく様子を見ながら、本日3度目の溜息をついた。
「本当に大丈夫なのか……」
「だから練習だって。ちょうどいいじゃないか」
 呆れたように零した声は、どうやら地獄耳らしいリーフに簡単に拾われた。
「じゃなきゃこんないっぱいの杖、ラナから譲ってもらってないよ。それに……」
 そこで一旦、リーフは言葉を止めた。その大きな団栗のような茶色の瞳で、何を思ったかニヤニヤとこちらを見つめる。
 思わず眉間に皺を寄せると、今度は目を細めて、笑う。
「『ナンナ』に教わったんだから」
 わざとその名前の部分を強調するのは、自分への当てつけだ。間違いない。
 彼女もどちらかといえば苦手な部類に入るが、一番苦手なのは、この隣にいる王子様だ。
 ナンナはとてもまっすぐだと思う。
 違う。
 まっすぐにしか生きられないのだ。きっと。
 だから、『何故』彼女が怒っているかとか、『何故』彼女が自分を嫌っているかとか、そういうのは痛いほどわかる。
 逆に、今、こうやって隣にいるリーフのほうが解りにくい。
 澄んだ瞳は嘘をついているようには見えないから、尚更だ。
「あ、今、ナンナのこと考えてたね」
「ついでにリーフ『様』のことも」
「そっか、ついでか」
 意地の悪い笑みを最後に一度浮かべると、積み上げられた杖からリーフがひとつ手に取る。すぅ、と大きく息を吸い込むと、急に真剣な目をして、その口からゆっくりと祈りの言葉を紡ぎだした。
 流れる言葉は耳に心地よい。誰かを癒すための優しい言葉だからだろうか。
 瞼を閉じ、風の音と鳥の鳴き声、そして流れていくような言葉たちに黙って耳を傾ける。
 次いで、じわりと、暖かい力が流れこんでくるのを感じた。

 (そういえば、ナンナは)


 例えばリーフは、未だたどたどしいがその言葉一つ一つを大切に扱う。
 例えばラナなら、耳の中で泡になって溶けるように優しい音で、ユリアならその鈴の音のような声はまさしく神への祝福で、セティならば聞いているこちらがぞっとするような厳格な神聖さを伴って、コープルなら讃美歌でもきいているかのように。
 詠唱の言葉ひとつとっても、それぞれ使い手によって、声色や声調、使い方も変わってくる。
 ナンナは、また、違っていた。
 ナンナはリーフといるときは、まるで花のように笑う。とても優しくて、甘い声だ。
 リーフ以外といるときは、氷のように淡々と、そして、ときどき柔らかに顔を綻ばせる。戦場での回復はどちらかといえば後者で、極めて冷静に、そして的確にこなしていく。
 いったい何度練習したのだろう。すらすらと紡がれる言葉はまるで澄んだ水音を聞いているようだと思った。


 けれど、自分が聞いた声はそうじゃなかった。
 しゃくりあげた、必死な声。祈る、というよりは、願いをぶつけているようにも聞こえた。
 嫌いじゃなかったのか、憎いんじゃなかったのか。
 途切れ途切れの意識の中、自分の頬に零れ落ちる透明な雫の感覚。
 どうしよう、また泣かせてしまった。
 でも、なんで。
 どうして。
 震えた唇が、彼女の名を呼ぼうとすると、ふるふると首を振って、またひとつ、涙の筋が彼女の頬を伝った。


「アーサーはナンナのことが好きなんだね」
 とんでもない発言に、はっと我に返った。
「誰が、あんな……」
「はいはい、ちゃんと無事終わったよ」
「……どうも」
 ぶっきらぼうに礼をいいながら頬を撫でると、痛みも腫れもひいていた。
「ナンナは優しい子なんだ。それでね、すごく可愛いんだよ」
 握っていた杖を山に戻しながら、リーフが呟く。
 知ってる、と言いかけた口を噤んだ。
 きっとまた、からかわれる。
「私の代わりに怒ってくれるし、泣いてくれる」 
「……あんただって、いや、リーフ様だって、憎んだことはないのですか」
「本当に嫌ってたり、憎んでたらさっき一人で歩いてたところは絶好の機会だったね。誰にもばれずに、ナンナを悲しませずに君を殺せる。君は私に気づいてたし、それならきっと無抵抗だろう?」
 淡々と、事実だけを口にする。茶色の瞳に急に温度が無くなった。
 ぞくり、と背筋に寒気が走った。
 唾を飲む音だけが、耳に響く。一度目を伏せると、ぱっと明るい声色が再び咲く。
「ナンナはとても優しいんだ。だから、きっとぐちゃぐちゃになってるんだよ」
「ぐちゃぐちゃ、ねえ」
「それで、そんな風にぐちゃぐちゃにしたのは君だからね、アーサー」
 自信たっぷりに見上げられて、宣言された。
 手早くリーフは杖の束を抱えると、立ち上がり、アーサーの手をひく。よろけながらも、引っ張られて立ちあがった視線のその先には――。




「あ」
「ほら、ね、優しい子だろう?」



 
inserted by FC2 system