曖昧な境界線を掻き消して


 夜風の中、さくさくと草を踏み分ける音が聞こえた。
 急いでいるわけでもない。静かに、けれど、ちゃんと意思があってこちらへと歩いてくる音だ。
 この音は、ずっと聞いてきたから、間違いない。
 息を潜め、剣へと伸ばしかけた手を、ストン、と降ろした。
「珍しいですね――セリス様」
 声をかけると、暗闇の中、微笑む気配がした。


「ちょっと抜け出してきたんだ」
「怒られますよ、オイフェ様に。フリージへの進軍を控えているというのに」
「うん、そこはリーフがうまくやってくれるかなって」
 隣に腰をおろし、子供のようなあどけない笑みを浮かべる。そういえば、最後に笑った顔を見たのはいつだっただろうか。
 ここしばらくはずっと張り詰めていて、時折見た顔は酷く苦しげで、悩ましげで。
 幼いころはそんなことがあったら、何も考えずに色々と尋ねられたのに、今はもう、違う。
 幼馴染でもあるのだから、親しいほうには入るものの、決してその関係は対等ではない。そして、自分もそれが正しいと知っている。
 次に何を言えばいいかわからず、デルムッドは口を噤んだ。
 夜闇の中、虫の音だけがただ、響く。
「聞いた? ユリアのこと」
 はじめに口を開いたのはセリスだった。
 彼の口から出た名前に、デルムッドはごくりと唾を飲みこむ。
 そして静かに唇を噛みしめ、爪痕が残るほど拳を強く握りしめた。
 人を寄せ付けない神秘さをもつ少女。でも、彼女が人形ではないとわかるのは、親しくなったものだけに見せる柔らかい笑顔があるからだ。しかし、その顔も、声も、今は、届かない。
 全ては自分の力が足りなかった。
「いえ……」
 苦虫を噛み潰したような表情で、重々しく唇を開く。首をゆっくりと横に振る。
 はじめは護衛として、そしていつしか彼女に主従以上の感情を抱いていた。しかし、今や彼女を慕う資格すら、自分は持ち合わせてはいない。
「……妹だそうだ、私の、ね」
 どこか安堵したような声。
 しかし、デルムッドには夜を灯すその青い瞳が揺れたように思えた。


「セリス様、」
「家族が出来たんだ」
 言いかけた言葉をさえぎるように、セリスの少し震えた声が響く。
「デルムッドはどうだった? ナンナと出会えたとき」
 淡々と声だけが宙へ消えていく。『セリス』にしては、余りにらしくなさすぎる。
 こういうとき、どうすれば一番なのだろう。子供のころには簡単にできたはずの選択が、全てを壊してしまいそうで、酷く恐ろしい。
「デルムッドもひとりだったろう。あの、ティルナノグで」
 少しだけ声に柔らかさが増す。
 幼いころは全員が全員家族だと思っていたのに、現実はそうではなくて。
 すべてでひとつだったその居場所に境界線をひかれた。
「けれど、私は、妹がいると、聞いていましたから。妹のほうがきっと寂しい思いをしているのではないかと思っていました」
「……デルムッドは優しいよね。いつも自分じゃなくて誰かのことを考えてるから」
「それはセリス様のほうでしょう」
 間髪いれずに、言い返す。
 次の瞬間、慌てて口を押さえた。
 ぱちくりとセリスが何度か瞬きする。
 そして、本当に小さく小さくふきだした。
「ふ、そうかな……」
「そうです」
「はは、うん、そうだったらいいな」
 穏やかな声に、張り詰めていた緊張の糸がほぐれ、肩の力がストン、と抜ける。
 今なら、素直に言える気がした。
「ナンナと会ったときは、本当に信じられませんでした。まるで、夢のようで。少し遅れてから、とても安心して。そして、今はとても幸せな気持ちです」
「……そっか。じゃ、ユリアは?」
 今度は自分が目を瞬かせる番だった。
 突拍子もないその名前に、表情を消す暇もなく、頬にさっと赤みが増す。
 暗闇だからきっとはっきりとその表情は見えないだろう。
 いや、それを祈るしか。
「冗談だよ」
 くすり、と笑う声に、やっぱり見抜かれていたと肩を落とす。
「そうか、幸せな気持ちか……」
 自分に言い聞かせるようなセリスの声。
 こくりとひとつ、腑に落ちたのか、頷く。 
 そして立ちあがると、大きく伸びをして歩きだした。
「セリス様?」
 数歩歩いてからくるりと振り返る。 
「ねえ、デルムッドの剣は守るためのものだって前、言ってたよね」
「ええ、っと……」
 きゅ、と左腰にさしている剣に手を這わす。初陣のその前からずっと使っていた鉄の剣。もうすっかりとボロボロになってしまった。
 一番手に馴染むものだ。 


「ユリアのこと、お願いできるかな」

きらりと月光を影に笑う彼は、とても澄んだ笑顔だった。 


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